はじめまして。
コーチ・カウンセラーの加藤晃由です。


誰でも悩むことはあります。
しかし悩んだときに、相談できるひとがいない。
私にとって一番困ったことがこの悩みでした。
1人でもいい、いっしょにに向き合ってくれる人がほしい・・・
寂しいことが当たり前 鍵っ子だった幼少期

私は母子家庭で鍵っ子でした。
母は仕事で遅く帰ってくる。
余裕がなくてにいつも疲れている。
心配をかけてはいけない。
友達にいじめられたり、先生に怒られたり、嫌なことがあっても心にふたをして何事もないようによそおっていた。
感情がおさまらないときにはいらない紙をくちゃくちゃにしたりして自分をおしころしていました。
そんな毎日が続くうちにひとりでいることが苦ではなくなっていったのかもしれません。
寂しいことが当たり前になりながら自分の思っていることが言えなくなっていきました。
部活に打ち込むことで悩みをけちらす中学時代


中学に入学するころやさしい兄が悩みを抱えて不登校になりました。
良い子でみんなに可愛がられている反面、周囲の環境になじめずに不登校になっていきました。
そんな兄と一緒の中高一貫校に入学してから私は剣道部に入り部活に打ち込みました。
兄の不登校のことで母や親せきが兄のために先生と面談したり病院に行ったりするころになると、周囲の意識が兄に向きました。
そのうちに「いいか、おまえがしっかりするんだ…」と母や親せきに言われることが多くなりました。
私もクラスメイトからいじめに合うこともありましたが「僕がしっかりしなきゃ」と弱音を吐けない状態でした。
剣道の部活に打ち込み、寝て忘れることがストレスを軽減してくれたのかもしれません。
頼られるけど自分の本音がわからない青年期

中学・高校と剣道の部活は続けるものの勉強できるわけではない。
剣道が強いわけでもない。
なぜかレギュラーでもないのに学業と剣道を続けるうちに周囲から頼られるようになりました。
大勢の中では目立ちたくないのですが対面で相談されたり気性の激しい周囲の中でも場をつないだりすることが多くなりました。
とくに大学に入ってからも剣道を続けてきた時にはまったくレギュラーでもないのに副部長に抜擢され個性の強い仲間や部員に相談されたり悩みを聞く機会が増えていきました。
幼少のころから自分の感情にふたをしてきた経験からか人の話を聞いて共感する会話が増え、相手の悩みを一緒に考えることが多くなりました。
人に頼られる一方で様々な考えがあっていいと思う反面、自分はどうしたいのか…本音が分からなくなっていく自分にも気づいていました。
どちらの意見にも耳を傾けているうちに「だからお前はどうしたいの?」と双方に聞かれても分からなくてドキッとしたこともありました。
死に直面し社会人としてイヤというほど葛藤を味わう

大学を卒業して社会人となって数年後、実家から自宅へと帰宅中に私は横浜ベイブリッジを封鎖してしまうほと大きな事故を起こしてしまいました。
走行中に風にあおられ自爆してなんとか車外に出たところを後続車にはねられてしまい生死をさまような大きな事故でした。
一命をとりとめたものの足の外傷がひどくその後数年に渡って切断を勧められることになりましたが新薬の治験者として手術を行いなんとか左足の切断を免れました。
数年後退院しましたが左足の障害は残り30歳を前に社会復帰できようやく仕事につくことができました。
今まで支えてくれた家族や周囲の友人、医療スタッフの方々に支えられ泣き言をいうよりハンデを負った分もうがんばるしかありませんでした。
デザイン事務所のデスクワークから始まりその後リハビリスタッフの助手を数年続け、結婚し30代後半で子供を授かりました。
これを機に転職を目指し、営業事務職として障害者枠で採用されたのでした。
しかし入社数年後、2008年のリーマン・ショックも重なり世間の風当りも強く適正な評価がなされない会社の現状に何度も心が折れました。

がむしゃらに頑張っても認められない。
悪循環が劣等感に変わり自分の意見など通る会社ではない。
自分というものを出してはいけない。
人に合わせた他人軸でないと生きられない。
良く思われる自分を演じていたし周囲もそうだった。
それが社会なんだと信じていた。
立て直したい! 仕事も家庭生活も限界に

子供が小学生になるころ私も仕事に限界を感じていました。
自分らしく生きるにはどうしたらよいのか、しだいに夫婦で意見の衝突も目立ち会話もなくなっていきました。
すれ違いが重なり最終的には離婚を妻から伝えられました。
お互いを考えての結論でした。
日々喧嘩している姿を子供に見せるより前を向いて歩もうと感じました。
離婚して数年後、コロナ渦による打撃を受けつつ自分のなかで答えがだせないまま営業事務として10年が過ぎました。
時代の移り変わりとともに、社内のあらゆる体制が変わることを知り自分も立て直したいという思いが沸き上がり退職を決意しました。
第二の人生 コーチ・カウンセラーを目指したきっかけ

会社を退職し、自分の強みを生かして人と向き合う仕事に就いた。
そして人に向き合えるようになるためにまず自分と向き合うことを始めた。
多くの社会人が周囲に歩調を合わせ一生懸命に生きている。
私もそうであった。
だからこそ自分に向き合うことなど何かを決断するとき以外になかった。
あるカウンセラーにお会いしたときのことだった。
そのとき私は成功したいと人の目線で話すことはできても「本当の自分」は何を感じてどうしたいのか良くわからなかった。
その時カウンセラーが放った言葉は、「自分を生きるなら…良い人にはならないでくださいね。」
「良い人は…どうでもいい人…。」
今までいい人を演じていた自分だと気づき…私はその言葉に刺さってしまった。
どうでもいい人…動揺しないようにしていたが…動揺した。
まさに図星だ。その通りだった。
周囲に合わせて無難な選択をすることが間違いだと思わなかった。
自分を出すことを遠慮して都合のよいどうでもいい人をやってきた。
自分を押しころして自分を出すことをあきらめていた。
それもかなり昔に。
今思えばこれが「努力の方向性が違っていた」と気づいた瞬間だった。
本当の自分はどうなりたいのか本当のスタートに立った瞬間だった。
もう一度人生を振り返り自分の重いふたを開け始めた。
少しずつであるが自分を…その辛い日々の感情を出せるようになってきた。
はじめて忘れていた幼少期のつらさが出てきて「つらかった」と言えた。
病院での闘病生活を振り返り、初めて事故で死ぬほど辛い思いを打ち明けることができるようになった。
そして自分だけでなく家族も本当に辛かったんだとわかった。
こうして感情を初めてだすことができた自分は素の自分にようやく気づけるようになっていった。
そして目の前の環境を変えようとした自分が間違っていることに気づいた。
自分と向き合ううちに少し自分を大切にできるようになった。
つらいときはつらいと感じればいい。
嫌なときは嫌でいい。
泣きたいときは泣けばいいと感情が出せるようになってきた。
でも…こんな自分は嫌われる。
こんな自分は恥ずかしい。
と以前は思っていたが…みんなからたくさんの言葉を頂くうちにそれは同情ではなく友情なんだとわかってきた。
必要なものはすべて私の中にある。
自分がわかるようになると人の気持ちもわかるようになってきた。
だから伝えることに「ありがとう」が返ってくることが多くなった。
そんなことがあってから私は自分の経験をもとに人に向き合う仕事コーチ・カウンセラーを目指していきたいと思うようになりました。
たくさんの人に向き合ったからこそ本当の自分を生きられるようになった

自分軸は自分を知らないと軸ができません。
自分は何を大切にして何が幸せだと感じるのか。
そして本当の自分はどうなりたいのか。
人のことはたくさん気づけるしアドバイスもできるのに自分のことが一番よくわからない。
そう、自分のことは信頼できる人に打ち明けて鏡になって言ってもらわないとわからないんです。
私が「いい人は…どうでもいい人」なんだと気づいたように。
人には優れているところもあれば足りないところもある。
良い悪いではない。
自分を高めたいならば優れているところをコーチングして伸ばす。
足りないところをカウンセリングして補う方法を考える。
私はコーチングとカウンセリングは両方とも必要だと考えます。
素の自分を出せるようになって良いところも悪いところも向き合えるようになりました。
今では本当の自分を生きていると感じています。
家族には「チーム加藤」と呼んでくれるようになったり自分と向き合った経験からご相談も頂けるようになりました。
今では「あなたにお願いしたい」とお役に立てることが私のやりがいです。
自分にとって本当に大切なものは何か。
それを知るには自分の心と向き合うわずかな時間と素直になれる温かい空間、そしてほんの少しの勇気が必要です。
本当の自分と向き合うことができて自分が大好きになれたからこそ自分らしく生きられるようになりました。
